この話の主役は武士ですが、武士が誕生するまで長い歴史の流れがあります。古墳時代にヤマト王権により、日本が統一されました。そして大陸の進んだ技術と文化を取り入れ、統治のありかたに変化が起こります。
やがて遠いインドで興った仏教がひろい大陸を経由し、約1000年という長い時間をかけて日本に伝わり、大きな影響を日本に与えます。多数の経典の他にも、寺院の建設技術、法衣や仏具を作る技術、法典を印刷する技術など、当時としては先進的な技術・文化・習慣などがもたらされました。聖徳太子は仏教を中心とした国づくりをめざしました。その後、律令国家として日本に秩序が形成されます。
各地に建設された寺院は大陸の進んだ情報の発信の拠点となり、人の往来を促します。しかしながら、時が経つにつれ社会の秩序を維持する律令制が緩むと世の中が不安定になり、秩序を無視して他人の土地を奪うなどが行われました。それに対し自らの開墾地を自衛するため、屈強な農民が武器を手に立ち上がります。自立を目指す自衛集団(武器を持って戦う人)が出てきます。自衛集団が組織化されると都の貴族も警護を依頼するようになり、護衛・戦うことを職業とする人たち(武士)が誕生しました。
武士は自立のためと、警護のための二つの役割をもつようになります。ずっと後の話ですが、人に雇われる武士のことを侍と呼んで区別するようになります。高い位の武士が武士を雇う、すなわち侍を雇う機会も増え、武士と侍が同じ意味として使われるようになりました。興味深いですね。
武道が日本固有の文化であることは、土地や気候そして人の営みをとおして生まれ、時代と共に工夫されながら人から人へ伝承されたことから言えると思います。相手との話合いで決着しない場合、武力は問題を解決するための最後の手段でした。戦うことを仕事にする武士は、いつでも戦場に身を置く覚悟が求められていました。そのような武士にとって、常に平常心であること、心のあり方は生死につながる大切なテーマでした。
平常の心と非常時の心とを別にしないこと。仏教の「平常心是道」の悟りを目標としたのであった。(柔道の独自性、富木謙治著より)仏教、その中でも禅が鎌倉時代に武士の間に広まったことも理解できますね。この考え方は現代にもつうじると思います。試合、学校の試験、発表会、入社面接、大事な商談やプレゼンテーションなど、普段の生活でも緊張する場面は少なくないと思います。或いは日常からしばし離れ、自分を見つめ直してみるなど、心をリフレッシュすることはとても大切です。
さて、戦国の世が終わり、江戸の泰平の世が続くと、侍(武士)のあり方も変わります。鎧を身に付けることはなくなりましたが、日常生活における護身武術として技の工夫がなされ、侍の教養として武芸が奨励されるようになります。外の敵と戦うことから、内なる敵(自分の弱さなど)と戦う(律する)ことへと変化します。
日常生活における座作進退の姿勢(これを自然体という)が、そのまま武術における基本の姿勢となったのである。(柔道の独自性、富木謙治著より)封建社会のなかで、支配する側としての侍に、武士としての心構えが求められるようになります。
それは士農工商という封建社会の中で、侍が手本としての役割を担ったことがあります。江戸時代後半には中国から伝わった学問をもとに、様々な日本の学者の解釈が加わり、当時の時代や社会情勢に適する学問が唱えられていきます。
江戸時代後期には幕府が学問を奨励したことから、武士の子は藩校にかよい文武両道を心がけ、町人の子は寺子屋にかよい、読み書き算盤の腕を磨くなど学問が広まりました。当時の識字率が非常に高かったことは有名な話です。明治維新以降の日本が急速に西洋の文化を巧みに取り入れ、発展した素地が江戸時代に出来ていたと言われる所以です。
さて、武道の歴史を辿ることは、過去から現代につながる永遠のテーマ「人と心のあり方」を辿ることになります。少しずつ時間をかけて完成させていきますので、よろしくお付き合いお願い致します。
公益財団法人東京都柔道連盟 事務局長 小野瀬雅幸
人と柔道を考える①
人と柔道を考える②